青空を求めて

高校時代から、自分が死んだ後のことをたまに考えると、すごく不安になったことがあります。その思いは、今も続いていて、疲れたときなどたまに、ハット目が覚めて、大きな声を出してしまうことがあります。

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声を出すことによって、まだ生きているという事がわかり、安心するのだと。

なんで、こんなことを書くのかというと、昨日怖い夢を久しぶりに見たからだと思います。かなり細かなことまで、設定されていて、リアルすぎて怖かったのです。

 

夢の内容は、新進気鋭の陶芸家が、コロナの影響で作品が売れず、生活に困っています。そんな折、観光で陶芸家のお店に来店した夫婦を、飲み物に睡眠薬を入れて眠らせて、金品を奪うというものでした。

奪ったあとは、自分の作品に塗りこめて、駐車場の横にある屋外の展示場に作品として、展示するのです。

作家の作品は、時を経るごとに少しずつ、増えていきます。一方世間では、陶芸家のお店の付近で消息をたつ人が増えている、とうことが話題になりますが、警察の捜査は、証拠もなく行き詰ります。

そんなある日、小さな子犬(チワワ)を連れた、夫婦が陶芸家のお店にやってくると、屋外の作品の前で、さかんに吠えるのです。

実は、その夫婦は最初に作家によって作品に封じ込められた夫婦の友人で、その子犬は懐かしい匂いに反応したのです。訪れた夫婦のご主人は警察に勤めている方で、飼い犬が盛んに吠えたことが気になりだします。

ある日、そのご主人は地元の警察に調査を依頼します。警察犬が出動して、作品の前で吠えると、連日の晴天で、乾燥した作品の外壁(外側)が崩れて、行方不明の夫婦が発見されたところで、目がさめました。

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妙にリアルな夢でした。自分は塗り込められる側なのか、犯人なのかわかりません。生活に困って、追いつめられた場合、自分の良心が砕け散ると、人間弱さが犯罪につながるのだと思いました。

生と死について考える時、宗教に縁のない私にとって、微かな救いは、『人間の精神だけは連綿と受け継がれて欲しい、どこかに存在し続けて欲しい』ということです。

最近アニメなどで転生ものが盛んですが、個人的にはあまり嫌な気はしません。

だいたい不幸な身の上の人が、異世界に転生して活躍して、ハッピーな物語の主役を演じるのですから、素敵なことだと思っています。私が見た悪夢に比べればはるかにましだと思います。

ただし、小さな子供などが、安易に目先の事でうまく行かないから、『人生リセット』みたいな感覚で、自他の命を粗末にすることにつながはしないか、という懸念はあります。

話しはそれましたが、人の精神がどんな様態であれ、残ってくれれば、私にとって死ぬことはそれほど怖くない気がします。

でも、実際そんな保証はないですから、こんなしょうもない自分でも肉体や精神が消えてしまうことは、怖くて仕方がないのです。

私の場合、自分や家内の両親も高齢ですが健在です。私が先に死ぬ可能性もあるかもしれませんが、通常両親の方が先に亡くなります。その大きなストレスに耐えられるか、心配な気がします。

そして、実に情けない話ですが、そのような場面を経験した後思うことは、『次は自分の番だ』ということなのです。

年を取るごとに、死が身近に迫ってきます。ウイスキーなどを飲みながらテレビを見たり、本を読んでいる時は、そのような気持ちから離れることができます。仕事が大変で、日々バタバタしていると、時間があっというまに過ぎていきます。そういう時も、いやなことを考える暇もないので、良いのかもしれません。

 

私には霊を信じるこは無いですが、信じたい気持ちはあります。母の実家は秋田県の大曲の建材商・大工で、雄物川にかかる橋沿いに大きな家を建てていました。

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小学校に上がる前の記憶ですから、定かではないのですが、よくこんな川の橋の傍に家が建つものだと、感心した記憶があります。

夏場に行くと、若葉にあふれて鳥の声に囲まれた素敵な家のように思えましたが、冬場は大きなつららが垂れ下がり、妖怪がでてくるのはないかと、すご~く怖かったのが子供心に焼き付いています。

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母が言うには、祖父が亡くなるときは、家じゅうの戸がきしみ、ふすまなどをバタバタと叩いて、大変だった。鍋や食器なども音をたてて、鳴り響いていたとのことでした。そんな話を聞かせれると、子供ならビビリますよね。

人間の精神は、肉体を離れても地球の外、宇宙のどこかで、彷徨って次の肉体が決まるまでは待機しているような気がしてなりません。私は転生などは信じませんが、前世の記憶かもしれない、残像が1つだけあります。

寺院の階段で、袈裟をまとった僧侶と北面の武士のようないでたちの侍が会話しているのを俯瞰しているものです。夢の断片かもしれませんが、子供のころから持ち続けています。

父からは、家は貧乏だか侍の家で、世が世なら刀を持って戦わなければいけない。そんなことを聞かされて育ったからかもしれません。

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家には古書や古い掛軸はあっても、刀がなかったのは幸いでしたが、戊辰戦争の頃は藩主が大阪城代だったこともあり、京都や大阪では血なまぐさいやり取りがあったとのことです。

その後、先の戦争では、父のすぐ上の兄が戦死したり、激動の時代をくぐりぬけてきたようです。私が生まれた昭和36年という年は、戦後からまだそんなに時間が経っていなかったのだと、そのような話を聞くにつけ、思うのです。

また、大きく脱線しましたが、私をとりまく環境は、生と死が結構身近に感じらる世界だったと思います。地位や名誉やお金よりも、大切に育てた自分の精神は、末永く残って欲しい。子供のころから、思うようになったのだと思います。

子供心に両親には死んだらどうなるかということを、さかんに聞いていた時期があった思います。母は死んだら星になりたい。なぜか私の問いには答えず、その言葉を繰り返していたと思います。

またある時は『死んだらそれで終わり。すべてが無い世界に戻る』と言われたことが、すごく怖かったです。

 

怖い夢を見てから、とりとめもなく、救いのない話をして、すみませんでした。ただ、一縷の救いとしては、精神の永遠性を欣求することで、そのような恐怖から自分を遠ざけることができる気がしています。

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青空を見るとき、従来はつらいことや悲しい時が多かったのですが、時には気持ちが昂ることもあり、感情の起伏に囚われていたような気がします。

わっとさんが、過去の歌謡曲などを取りまぜながら、話題を深堀りしてくださっています。

www.watto.nagoya

個人的には最終的な自分自身への終着点として、次のように考えています。

結果や事実は判りませんが、『願う』ことによって、精神が救われるのではないかと思います。凡そすべての宗教なり、人々の心の求めるものは、『願い』なのだと思います。

理想とか、愛とか願いの中身は人それぞれなのでしょうが、願うことが、すなわち究極の自己確認の唯一の方法のような気がします。

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青空、ひたすら澄んだどこまでも青い

青い空の下

緑の小高い堤を、

そよ風を頬に受けながら歩いていきます

どこまでも歩いていると、

日は西に傾き茜色の空に染まります。

そんな時に自己と他との境界がなくなり

永遠を感じます

この時感じる永遠が

ほんとうに永遠にいつまでも、

感じられつづけることを願うのです

その願いがあるかぎり、

自分は救われる気がします。

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今現在、この感覚を感じられる場所や時を求めて生きている気がします。

そして、そんなときの傍らに美味しいウイスキーがあると最高だと思っています。

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